「ここに主イエスがおられる」  08.03.23
                      マルコ16:1〜8

 イースターの日に、神さまは実に不思議な出来事を起して
くださいました。それによって、絶望し諦めるしかなかった者が、
新しい心でもう一度生きはじめる者に変わりました。
 イースター前、自分の弱さや力の無さに打ちひしがれている
人たちがいました。ヨセフという人は、最高法院の議員であり
ましたが、主イエスの処刑を防ぐことはできませんでした。
 主イエスの周りにいた女性たちも、主エスの死と葬りに際して
何もできませんでした。ただ見つめているだけでした。
 彼らにとって、主イエスが納められている墓は、自分の無力さを
思い起こすものでありました。弟子たちは、主イエスの死と葬りの
時に姿を見せません。主イエスを見捨てるようにして、逃げていた
からです。彼らにとって、主イエスの墓は、自分の情けなさを痛感
させられて、絶望的な気持ちにさせられるものでありました。
 ところが、イースターの朝、その墓に異変が起こりました。
 自分たちの負い目や弱さを痛感させられるはずの主イエスの
亡骸がなくなったのです。墓は空っぽになったのです。それは、
自分たちの負い目を忘れることができたというのではありません。
 神さまは、十字架にかかった主イエスを復活させられました。ただの
死人の復活ではありません。主イエスは、ご自分の罪ゆえに十字架に
かかられたのではありませんが、神の御子としての力を発揮して、
私たちの罪を抱えた罪人として十字架にかかられたのです。神さまに
対する負い目、弱さ、情けなさなど一切を抱えた究極の罪人として
十字架で死なれました。神さまは、その主イエスを復活させたのです。
 「罪ゆえの死」の只中に置いたままにしないで復活させられたのは、
神さまが罪を赦されたからです。
 主イエスを復活させることによって、「罪の赦し」が実現しました。
 彼らは、新しい心を与えられて、絶望からもう一度歩み出します。
 
イースターに、「罪赦された」との宣言を受けて、私たちは
進み出すのです。